深センの歴史
投稿者: Webmaster 掲載日: 2006-8-25 (3089 回閲覧)
::清時代::
明代の末、中国北部の女真族を統一したヌルハチは紀元1636年モンゴル人より元の玉爾を譲られて清を建国。同じ頃、紀元1644年李自成が内乱に乗じて明を滅ぼすと、ヌルハチは万里の長城を超え、李自成の軍を打ち破り、こうして中国全土を支配下においた。しかし、明朝の遺民や鄭成功などといった反対勢力の沿岸部における抵抗活動が長引き、清朝政府は沿海各省庁の境界を50里内側に移動させる「遷界」を行い、新安県の3分の2を東莞に帰属させる。紀元1684年には回復している。清朝政府は特殊政策として小作料の徴収する代わりに、耕作用水牛や農業用の種などを提供。19世紀に至る頃までには軍事的な集落形成は経済文化活動としての集落形成に変化し、その人口は22万規模にまで膨らむ。
::19世紀::
19世紀に入ると英国の植民地政策が推し進められ、中国への侵略第一歩として大量のアヘンがインドより流入する。人民に蔓延したアヘンは酷い災難をもたらし、密輸が横行。これを阻むため南頭、赤湾、沱(サンズイに守る)、九龍に大砲を設置。紀元1842年7月24日、清と英国の間で不平等条約「南京条約」が締結され、香港島は英国に占領されることになった。しかし、新安人民は夜間に英国軍艦を襲撃するなど抗英活動を続けた。
紀元1860年1月11日、香港の九龍半島尖沙咀は「北京条約」により英国に分割。後の紀元1898年4月21日、清朝政府は新界を含む香港全域を99年間英国へ租借することとなる。こうして香港と深センは分割された。帝国植民地主義と封建制度の間で深センの市民は圧迫され産業は衰え、極度の貧困に襲われる。ついに紀元1900年、圧制に対して武装蜂起する。この武装蜂起は失敗に終わるが、これに続く辛亥革命に意義と影響を持つ。
::近世から現代::
1911年広九鉄道が開通する。広州から香港の九龍までをつなぐ鉄道の開通により、物流量が増加。1924年河南省新安県と同名であるため、宝安県と改称し、県庁所在地を南頭とする。1937年日中戦争勃発。深センの東、大鵬寄りの大亜湾から中国への上陸を開始した日本軍に対し南頭人民は積極的に抗日戦争に参加、この地の闘争の中心的存在であったが、南頭が陥落した後、一時東莞に県政府が移動する。1945年日本が敗戦したと同時に宝安県も開放される。
1949年10月中華人民共和国成立。
1950年ごろより党中央政府より深セン、宝安地区は試験的に土地改革に着手することとなる。何千年に渡る封建制度下の地主所有制度を廃止し、農民所有制度へと転換しようとした。人民は1100年に渡る封建制度の圧迫から開放され、解放後人民のための農地を欲していた。1953年の末ごろには中央は農業の合同生産に関しての決議書を作成し、それによると農民が個人で土地を所有することから集団で所有する方向へと指導している。1954年宝安県では中央が3つの共同自治体を試験的に経営する。1956年宝安は惠陽地区委員会に属した。1958年には毛沢東主席による大躍進政策が発表され、人民公社化の効果を上げる。1960年初頭、毛主席は党中央に本来の共産性を進めるための再調査を提出。1級人民公社が3級に変わることも示唆し、損益については各自が負担すべきとした。これにより低迷していた農業の生産性は回復し更なる発展へと導いた。1955年ごろから宝安では水田にて稲作が盛んに行われるようになり、二期作などの工作面積は飛躍的に伸びた。また1959年より始まった深センダムの建設は治水や土地計画などからも重要な公的事業であり、1960年3月に完成する。その後1961年冬から1962年の春先まで香港では水不足が起きており、これを補完するために深センダムより水を供給した。これより香港への水の供給は毎年6000万立方メートルに及びその水量は年々増加し、現在では3億立方メートルとも言われている。また水田農業においては沿岸部の付近の潮汐被害が及ぶのを防ぐため防波堤の建設を行った。冬季農閑期には婦女子まで参加しての防波堤建設が行われた。
1976年文化大革命終了後、県委員は宝安農業の多角化に乗り出す。養豚、養鶏、ライチ、パイナップルなどの果物の生産を始め、珠江デルタの中でも高い収穫量があった。そうして農業生産では誰もが知るところとなったが工業においてはまだまだであったことから、農業と共に力を入れる。石灰工業、煉瓦製造所、製糖工場、酒の醸造所、製紙、燐酸肥料工場、窒素肥料工場、缶詰工場など。1957年から60年代にかけては宝安県から香港への不法集団移民が頻発した。資本主義による香港農民と中国人民との賃金格差の開きが、あまりに大きすぎたため中国人民の人心が外に向かうのをとめることができなかった。
1979年3月、中央政府と広東省によって、宝安県を深セン市へと変更。広東省と惠陽地区委員会の二重の指導を受けることになる。11月には中国共産党広東省委員会により地区レベルの省轄市へと変わる。1980年5月には党中央委員会と国務院が正式に経済特区に定め、8月には全人民代表大会において、深セン市に経済特区を設置することが認可された。81年3月には副省級市に。1988年11月には国務院が深セン市が国家計画において、単独かつ省レベルに相当する経済管理権限を与える。1992年2月、全国人民大会及び常務委員会において、市政府に地方の法律法規を制定する権限を与える。現在に至る。
(シンセンスクエア)
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