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生活・文化 > 深セン基本情報 > 深センの歴史
深センの歴史
投稿者: Webmaster 掲載日: 2006-8-25 (3277 回閲覧)
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深センの歴史は林立するビル群をみるにつけ、まだ20年足らずで浅いと思われがちだが、広く華南という地に目を向けてみるとその歴史は古く、夏や商時代(紀元前2000年)以前の旧石器時代にはすでに人が居住していた遺跡の出土によりその時代にまで遡る。

::古代百越時代::
中国最初の国家、夏やあるいは商といった古代国家が建国した当時、華南は百越部族が広く分布し、深センは百越の滞在地であった可能性がある。そもそも越人は南方の真珠、宝玉、象牙、タイマイ(亀)などといった珍品貴賓を売買し、東南アジアから中国本土にかけての広い範囲で交易を行うことによって潤っていた。その中継地として利用されたのが広州や珠海、深センである。

::秦の時代から南越国::
「史記」列伝、「准南子」などといった書物には、秦の始皇帝が越地方の犀角や象牙、翡翠、真珠といった南方の産物を好んでいたことから南方攻略を行ったことが記されている。紀元前214年、秦は南方攻略のため湖南と広東の省境に位置する南嶺を越えて越に攻め入ることが難航するとみるや湘江と〔サンズイに離れる〕江という二つの川を運河で繋ぎ、番寓(今の広州)を陥落せしめた。(中国史における運河建設の最初といわれている。)この時、南海、桂林、象郡の3県をおき、この地を開拓したという。しかし数年でその支配も終わり、南海郡の官吏に派遣されていた趙佗が独立し、紀元203年南越国を打ち立てる。

趙佗は南越の都を番寓(広州)として70年余りこれを統治。その後紀元前112年に越内で内乱が起こるとすかさず、漢の武帝は軍を派兵しこれを陥落。以後、南越は滅亡してこの地は漢の支配下になる。

::漢の時代::
紀元331年に6県を統括する東官郡が置かれる。この6県を統括すべき郡府として宝安があり、東官郡府が南頭(深セン)に置かれる。当時の宝安県は現在の深セン市、東莞、中山、珠海、香港を含み、この地区が歴史的にも最も早く国家行政の基盤を作り上げた。

::隋の時代::
魏晋南北朝時代の混乱が鎮まった隋の統治時代、紀元590年には東官郡を廃止して、宝安県を南海郡の所属に変更。県庁所在地を現在の深セン南山区にある南頭におく。この頃、中国国土が広まったと共に海からの来訪者を受け入れるようになる。東南アジア諸国、アラブ中東諸国と遣隋使を送った日本などである。番寓や珠海、深センの港に遣隋使の使節船が立ち寄ることもあった。

::唐の時代::
唐の統治時代、紀元757年には宝安県を東莞県と改称。深センにあった県庁所在地は東莞へ移動し、南頭には屯門軍鎮が置かれるようになる。この頃、唐は統治時代で最も隆盛していた時期であり、国土は中央アジアのオアシス都市にまで及び、天山ウイグル、甘州ウイグル、ダングートなどの内陸部交易商人が東西を行き交うようになる。また南の華南ではインド洋や南シナ海を渡って多くのアラブ人やペルシャ人が番寓(広州)を訪れるようになり、海のシルクロードといわれる南海交易ルートの重要拠点となっていた。これらの海上交易や海外交易を保護するために置かれた屯門軍鎮は、安南都護府の下、管轄地である今の東莞、香港、深セン一帯を守護とし、南の深セン南頭に城砦を築いてこれに応じた。

::宋の時代::
宋朝は唐の制度を踏襲したため、引き続き深セン南頭が軍鎮として機能する。後半、国家の政権は北の金の脅威を受け、南下し南宋を建てている。南宋の首都は臨安。最後の皇帝であった祥興帝は金の追撃から逃れるために、兄と共に陸秀夫に擁されて南下し、番寓(広州)を最後の拠点とする。しかし、金の追撃は激しく、臣下の陸秀夫はまだ6歳の幼い祥興帝を背負い入水。その遺体は今の深センの赤湾にたどりついたことから廟がある。(宋小帝墓)
深センは南海交通の戸口と軍事の要衝となっており、海上巡視のために南頭に軍を駐在させる。経済活動においては、絹の道(シルクロード)ならぬ陶磁器の道(チャイナロード)が盛んになるにつれ、真珠と牡蠣の養殖、製塩、香辛料といった品目の生産がされるようになる。紀元1195年には人民が勝手に塩を製造することを禁じ、所謂塩の専売を始めた。これにより製塩業者の武装蜂起が起こり、朝廷は鎮圧のために軍を派兵することとなる。

::元から明時代::
元時代には真珠の養殖が更に発展する。南山半島の后海(深セン湾)や大鵬半島の龍岐は著名な真珠の産地となる。明王朝が中国を統一した後の紀元1394年、現在の深セン地区内に「東莞守御千戸所」及び「大鵬守御千戸所」が設けられる。深センの地名が最初に歴史書に現れたのは1410年のことである。明代の3代皇帝永楽帝は1403年に帝位につくと、領土拡大のためにモンゴル遠征、満州の女真族を冊封(文書を授けて封建するという封建制度のことを指し、皇帝は王や候という中国の爵号を授けて君臣関係とした)、ベトナムを征服した。また宦官の鄭和に遠くはアフリカにまで及ぶ大遠征を命じた。

ヨーロッパの大航海時代を先んずること70年前に、鄭和は7度の大航海の成功をおさめ、マラッカなどの東南アジア、インド、アラブ、アフリカにまで及ぶ広範囲の諸国との交流及び交易を可能にさせ、明朝に朝貢させたことは歴史的にも高く評価される。この頃に定められた衛所制度によれば、深センは十進法による明朝の軍事単位である千戸所を賜ったことになる。千戸所とは、人数にすると1120人規模を指す。この規模の軍隊を駐留させたということは、南海における海上交易、海外交易が重要であった論拠ともなる。

16世紀に入ると倭寇が中国沿岸部を脅かすようになる。さらにモンゴルが分裂していた国内を再統一し再び力をつけるようになると頻繁に中国へ侵入してくるようになる。この時代の明朝を悩ませた倭寇とモンゴルを併称して北慮南倭と呼び、国力を疲弊させる。紀元1521年には中国史上第一回目のヨーロッパによる侵略が起こる。侵略してきたのはポルトガルで、広東一帯の海域巡視にあたっていた深センの南頭軍はこれに協力し、撃退した。紀元1565年、深センの南山半島に「南頭集落」を設立。「虎門の守衛と省庁防壁」とする。

紀元1573年、明朝は新安県を設置し、管轄官庁を南頭とする。現在で言うところの深セン市と香港を含んだ地域である。経済活動として製塩、茶、稲の生産を行う。
紀元1605年と1620年の2回に渡り、南頭を震源地とする地震が起きたことが記されている。マグニチュードや震災の規模は不明である。

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