J's Jazz物語:ジャズはビビンバ!
投稿者: Webmaster 掲載日: 2006-6-29 (449 回閲覧)
現在は撤去されて当時の面影さえうかがい知ることはできないが、清渓高架道路の終わり、つまり、3.1ビルを通り武橋洞へ向けて下る途中に、人呼んで‘広橋滑走路’と呼ばれる奇妙な地点があった。
何が奇妙かと言うと、その場所では自動車に乗りながら無重力状態を体験することができると言われていたのだ。その理由は実に簡単で、車が走るコンクリート面上で、その地点だけ角度差があったため一瞬だけ車は宙を飛んで走っていくことになるからだ。今思えば、危なくてしょうがない危険地点であったが、当時の運転手たちには妙なカタルシスを与える場所だった。
その奇妙な地点のすぐ下には若者がよく集まる小さな飲み屋があった。‘誘惑’という看板を掲げていたけれど、誰一人としてその名前で呼ぶ者はなく、代わりに‘Temptation’と呼ばれて親しい飲み屋だった。
“ジャズ?”
英敏先輩は下ろした長い前髪を掻きあげならそう言った。古い木のテーブル上にある赤黒い杯いっぱいに注がれた濁酒が、先輩が足を組みかえる度にこぼれ落ちそうになった。冷めてしまったシーフードお好み焼きの真ん中あたりにめり込んでいた貝柱はすっかり乾いて固くなってしまっている。
“ジャズねぇ・・・うーん、こりゃまたすごいことをひらめいたもんだ。ビビンバ!そう!ジャズはビビンバだ!”
ソウルの夜は一変していた。午前12時前と後。11時半頃から始まるかつての帰宅戦争(*1)を見ることはなく、通りの看板たちは賑やかに輝き続けている。
“ビビンバ・・・いや、ジャズを食わなきゃな。なあ、そうだろ?”
英敏先輩は背の低い消火栓バルブに寄りかかったままふらふらと体を動かした。
その時である。先輩の後ろで風を切るような音が聞こえた。その音が聞こえる場所へ目を向けた瞬間、閉じかかった瞳孔を開いて大きなアドバルーンが飛び込んできた。
それは小さな丘陵の影まで見えるほどの完璧な満月だった。清渓高架道路の隅に腰掛けている満月はそれ自身の色白しさを一層掻きたてていた。まるで風船がヘリウムガスを吸い込んで大きく膨張したかのように。
しかし、風を切る音の根源はどこにも見当たらない。その音の根源を突きとめようとするが、巨大なセメント構造物がコントラバスの鈍重なストリング音を醸し出し振れているだけである。
“うん! Birdだ!Live in New York・・・”
先輩が握っていたミラービールの瓶が少しスイングした。
そう。Charlie Parkerだ。
Coleman HawkinsやLester Youngなどの音楽を吸収し優雅なBopを創出した彼は、35年の短い人生を狂おしいほどのアルトサックスの音色と共に燃え尽きていった。信じられないほどのエネルギーで絢爛たるImprovisation(即興)を奏で、本名の代わりにBirdという愛称で親しまれたCharlie Parker。
1955年3月23日。彼はニューヨークの小さなモーテルで引っかけた魔法の白いパウダーに酔い、その快楽から醒めることはなかった。I Remember You, The Song is You, April in Parisなどのボップ音楽を新たに解釈した真のボップミュージシャンは若くしてその生涯を閉じた。
後日、ジャズコラムニストのLeonard G. Featherがこんなことを言っている。
Birdは若い世代のミュージシャンの間で尊敬の対象になったけれど、多くの評論家達と争わなければならなかった。評論家達はジャズの新しい発展が始まれば必ず敵意を剥き出しにして飛びかかったからだ。ジャズというジャンルの中では彼の音楽が話題の中心であったことは確かだが、彼は一般大衆には全く知られない無名のアウトサイダーだったと言えるだろう。
(*1)韓国で1981年まで続いた夜間外出規制のため午前12時から4時までの時間帯は外出が制限されていた。このため午前12時が迫るとこぞって皆が帰宅しようとする当時の社会現象を人々は帰宅戦争と呼んだ。
Translated by Shuichi Tanaka
Copyright 2005 reserved by
BLUE DESIGN STUDIO Co., Ltd.
Jason’s Jazz Story: info@blue-ds.com
何が奇妙かと言うと、その場所では自動車に乗りながら無重力状態を体験することができると言われていたのだ。その理由は実に簡単で、車が走るコンクリート面上で、その地点だけ角度差があったため一瞬だけ車は宙を飛んで走っていくことになるからだ。今思えば、危なくてしょうがない危険地点であったが、当時の運転手たちには妙なカタルシスを与える場所だった。
その奇妙な地点のすぐ下には若者がよく集まる小さな飲み屋があった。‘誘惑’という看板を掲げていたけれど、誰一人としてその名前で呼ぶ者はなく、代わりに‘Temptation’と呼ばれて親しい飲み屋だった。
“ジャズ?”
英敏先輩は下ろした長い前髪を掻きあげならそう言った。古い木のテーブル上にある赤黒い杯いっぱいに注がれた濁酒が、先輩が足を組みかえる度にこぼれ落ちそうになった。冷めてしまったシーフードお好み焼きの真ん中あたりにめり込んでいた貝柱はすっかり乾いて固くなってしまっている。
“ジャズねぇ・・・うーん、こりゃまたすごいことをひらめいたもんだ。ビビンバ!そう!ジャズはビビンバだ!”
ソウルの夜は一変していた。午前12時前と後。11時半頃から始まるかつての帰宅戦争(*1)を見ることはなく、通りの看板たちは賑やかに輝き続けている。
“ビビンバ・・・いや、ジャズを食わなきゃな。なあ、そうだろ?”
英敏先輩は背の低い消火栓バルブに寄りかかったままふらふらと体を動かした。
その時である。先輩の後ろで風を切るような音が聞こえた。その音が聞こえる場所へ目を向けた瞬間、閉じかかった瞳孔を開いて大きなアドバルーンが飛び込んできた。
それは小さな丘陵の影まで見えるほどの完璧な満月だった。清渓高架道路の隅に腰掛けている満月はそれ自身の色白しさを一層掻きたてていた。まるで風船がヘリウムガスを吸い込んで大きく膨張したかのように。
しかし、風を切る音の根源はどこにも見当たらない。その音の根源を突きとめようとするが、巨大なセメント構造物がコントラバスの鈍重なストリング音を醸し出し振れているだけである。
“うん! Birdだ!Live in New York・・・”
先輩が握っていたミラービールの瓶が少しスイングした。
そう。Charlie Parkerだ。
Coleman HawkinsやLester Youngなどの音楽を吸収し優雅なBopを創出した彼は、35年の短い人生を狂おしいほどのアルトサックスの音色と共に燃え尽きていった。信じられないほどのエネルギーで絢爛たるImprovisation(即興)を奏で、本名の代わりにBirdという愛称で親しまれたCharlie Parker。
1955年3月23日。彼はニューヨークの小さなモーテルで引っかけた魔法の白いパウダーに酔い、その快楽から醒めることはなかった。I Remember You, The Song is You, April in Parisなどのボップ音楽を新たに解釈した真のボップミュージシャンは若くしてその生涯を閉じた。
後日、ジャズコラムニストのLeonard G. Featherがこんなことを言っている。
Birdは若い世代のミュージシャンの間で尊敬の対象になったけれど、多くの評論家達と争わなければならなかった。評論家達はジャズの新しい発展が始まれば必ず敵意を剥き出しにして飛びかかったからだ。ジャズというジャンルの中では彼の音楽が話題の中心であったことは確かだが、彼は一般大衆には全く知られない無名のアウトサイダーだったと言えるだろう。
(*1)韓国で1981年まで続いた夜間外出規制のため午前12時から4時までの時間帯は外出が制限されていた。このため午前12時が迫るとこぞって皆が帰宅しようとする当時の社会現象を人々は帰宅戦争と呼んだ。
Translated by Shuichi Tanaka
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